銀星亭~Villa d'Etoile en argent~

カテゴリ:さえね先生( 77 )

夏公演 「修学旅行」 を終えて(3)

 3回目の今回は、登場人物についてふれておきたい。

 主人公、ヒカルは班長でこの部屋の取りまとめ役。
 なんとか盛り上げようと一生懸命だが空回り。
 昼間の班別行動では道を間違え、集合時間に遅れて夜の外出がなくなるという
失敗もやらかしている。
 一生懸命で基本「いいひと」なので、憎めないキャラクターである。

 しかし劇中ではそんな「いいひと」ヒカルの無力さも示される。

 仲間同士のいさかいを収めようと間に入るが、ヒカルに力がないため、
 お互いの言い分を伝えるだけのメッセンジャーガールになってしまい、
 部屋の中の紛争は解決できない。

 誰も傷つけたくないし、もちろん自分だって傷つきたくない。
 きっと、だれだってそうだ。でもそれはとても難しいことなのだ。

 結局、ヒカルは同じ部屋の女子から、
 「そういう態度が一番腹立つ」と言われてしまう。


 「ごめんなさい・・・」


 うつむきながらつぶやくヒカル。

 私はここに戦後の日本の姿を見る。

 
 軍事力を放棄し、ひたすら平和外交に徹してきた、「優等生」日本。

 あらそいごとはよくないよ、けんかはよそうよ、と、
 国際社会に向かって訴え続けてきた日本。
 それはきっと、「いいこと」だったんだろう。

 でも、みんなにいい顔してきた結果、
 みんなから相手にされなくなることっていうのがあるのかもしれない。


 劇のクライマックスでヒカルは叫ぶ。


 「世界の中心でひとりぼっち!!」


 ヒカルに足りなかったものは何だったのだろうか。
 私たちは私たち自身のこととして考えさせられる。


 物語終盤、荒廃した部屋の中で呆然とするメンバーが残される。


 「わたしたち、これからどうしよう」とつぶやくノミヤに対し、ヒカルは答える。


 「大丈夫。明日があるよ。」


 私はここに、夜明けを、明日の希望を確信する、ヒカルの姿を見る。
 それはまさしく日本の姿である。

 東の水平線がひかるとき、この混迷した部屋にも夜明けがくる。


 やはり夜明けは、日出づる処の国からはじまるものなのだ。

 
 願わくはヒカル(日本)が、この部屋(世界)に、
 希望のヒカリをもたらすような存在になることを祈りたい。


 でもきっとそれは、いっしょうけんめい考えたり、悩んだり、対話したり、
 行動したりする中から、その可能性が見えてくるものなのだろう。


 ヒカルたちはこの「修学旅行」を通じて、きっといろいろと考えてくれたに違いない。
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by yoizukisaene | 2015-09-09 10:12 | さえね先生 | Comments(0)

夏公演 「修学旅行」 を終えて(2)

畑澤聖吾「修学旅行」は、きわめて巧妙な舞台構造を持つ、完成度の高い戯曲である。


せっかくの沖縄修学旅行だというのに、舞台は最初から最後まで宿泊先の旅館(ホテル)の一室である。青い海も、白い砂浜も、そこにはない。
部屋の中で部屋の住人たる女子5人グループが対話を繰り広げる形式で芝居は進む。

修学旅行の夜と言えば、部屋の移動は禁止だったり、夜中に出歩いてはいけないなど、いろいろなルールがあるのが常である。消灯時間だって、本当は決まっている。

しかし、部屋の中だけは先生もめったに入ってこない、生徒だけの世界なのだ。
この中で、生徒たちは恋バナに花を咲かせたり、盛り上がって自由に過ごす。消灯時間だって、明かりが外に漏れなければ大丈夫。遅くまでおしゃべりしていても、声が漏れなければ大丈夫。生徒だけの、治外法権の空間。

ここで巧妙なのは、部屋の出入りが完全にゼロにはならないという点だ。ときどき先生が見回りに来たり、窓を伝って男子が遊びに来たりといった変化がある。
これが物語世界の閉塞性を打破し、物語に躍動感を与えている。
平田オリザのいうところのセミパブリック空間が自然に実現されているのだ。

畑澤はまず、そういった世界、巧妙な舞台装置を用意して見せた。
ここがまず、優れているところである。
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by yoizukisaene | 2015-09-08 16:02 | さえね先生 | Comments(0)

夏公演 「修学旅行」 を終えて(1)

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演劇部 夏公演が終わった。


雨の中、多くのお客様に来ていただき、満席で立ち見も出るありさまだった。
ありがたいことだ。


今回は、高校1年生を主体に、中学生も前面に出しての舞台だった。


夏公演は、本校演劇部としては初めての試みであると共に、大会をにらんだ布石、つまり急速な部員の成長を期しての野心的な挑戦であったといえる。


6月の文化祭が終わってから上演までの練習期間は約6週間。

その間に定期試験が入る。夏の講座が入る。学校行事が入る。夏休みも入る。御殿場合宿(夏季演劇講習会)もある。いつものことながら、時間との闘いだった。


役者たちの演技の錬成以上に、裏方・制作・マネジメント部門の苦労が多かった。しかしそれも、いや、それこそが今後の大会運営や3月の自主公演に向けた、彼ら自身の糧となるだろう。


苦心し、苦労し、汗と涙を流したことが、今後の血となり肉となる。


彼らは傷だらけになりながら、また一つ階段を上ってくれたはずである。


私はそう確信している。



暑い夏は終わった。


これから大会に向けた、彼らの熱い季節がはじまるのだ。


高校演劇の、最も熱い季節―秋は、もう始まっている。



夏休みに比べて少しだけ高くなった空を見ながら、私はそう考えた。
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by yoizukisaene | 2015-09-07 08:40 | さえね先生 | Comments(0)

祭りは終わった。

文化祭が終わりました。
私の担当している演劇部の3年生は部活動引退となります。
いろいろな夢を見せてくれた子どもたちでした。
本当にありがとう。
あとを継ぐ2年生の頑張りに期待したいです。


 窮まれることのなきこと水無月や祭りの果ての空の青さは
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by yoizukisaene | 2015-06-09 09:10 | さえね先生 | Comments(2)

星陵中学校・高等学校演劇部第3回自主公演のお知らせ

今年も演劇部自主公演の季節がやってきました!
今回で3回目となる自主公演、今回はコメディタッチの名作「バンク・バン・レッスン」に挑戦します。
どなたも安心して笑っていただける内容です。ぜひご来場ください。

1 名 称  星陵中学校・高等学校演劇部 第3回自主公演

2 日 時

平成27年3月20日(金) 18:30開場 19:00開演(Aキャスト)
平成27年3月21日(祝) 13:00開場 13:30開演(Bキャスト)

3 会 場  富士宮市民文化会館小ホール(全席自由)

4 入場料  一般・高校生300円 中学生以下無料

5 上 演  高橋いさを「バンク・バン・レッスン」

6 その他  当日券あります。

7 問い合わせ先   星陵中学校・高等学校演劇部 TEL 0544-24-4811


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ぜひみにきてください。

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by yoizukisaene | 2015-03-15 17:01 | さえね先生 | Comments(0)

センター試験1日目

静岡はよく晴れております。
あわてず、あせらず、勉強の成果を発揮してきてほしいものです。
がんばれ、受験生!!
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by yoizukisaene | 2015-01-17 08:33 | さえね先生 | Comments(0)

推薦入試・AO入試合格祈願。

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夢に向かって最善を尽くせ!
暑い夏は過ぎたけど、
一年で一番熱い秋が来ます。
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by yoizukisaene | 2014-10-22 08:19 | さえね先生 | Comments(0)

山月記について(下)

 ところで李徴は完全に虎になったわけではなかった。そこに李徴の悲劇性がある。本文の独白を追ってみよう。


 ただ、一日の中に必ず数時間は、人間の心が還って来る。
そういう時には、曾ての日と同じく、人語も操れれば、複雑な思考にも堪え得るし、経書の章句を誦んずることも出来る。
 その人間の心で、虎としての己の残虐な行いのあとを見、おのれの運命をふりかえる時が、最も情なく、恐しく、いきどおろしい。
 しかし、その、人間にかえる数時間も、日を経るに従って次第に短くなって行く。
 今までは、どうして虎などになったかと怪しんでいたのに、この間ひょいと気が付いて見たら、おれはどうして以前、人間だったのかと考えていた。

 これは恐しいことだ。

 今少し経てば、おれの中の人間の心は、獣としての習慣の中にすっかり埋もれて消えてしまうだろう。
 ちょうど、古い宮殿の礎が次第に土砂に埋没するように。



 李徴の心は、虎と人間との間をたえず彷徨している。
 それは闇と光の間をさまよう魂のようだ。
 しかしその心はしだいに闇の色合いを濃いものとしていく。


この間ひょいと気が付いて見たら、おれはどうして以前、人間だったのかと考えていた。これは恐しいことだ。



 ひとは、慣れる生きものなのだ。悲しいことに、そして恐ろしいことに、どんな状況にもやがて慣れてしまうのだ。
 李徴が虎としての自分の生活に違和感を覚えなくなった時、李徴の人間の心を照らしていた灯りがふっと立ち消える。あとには煌々ときらめくばかりの闇が深淵の口をぱっくりと開けている。
 おのれがその闇の中に膝まで浸かっていることにふと気付くとき、我々は底しれぬ恐怖と寒気を覚える。今のこのあたりまえは本当にあたりまえのことなのか?と。
 しかし闇の力にあらがうことは難しい。砂漠の砂が古い宮殿の礎を呑みこんでいくように、李徴の理性は虎の心によって食いつくされてゆく。
 かつての詩人の悲痛な独白はさらに続く。


 おれの中の人間の心がすっかり消えてしまえば、恐らく、その方が、おれはしあわせになれるだろう。
 だのに、おれの中の人間は、その事を、この上なく恐しく感じているのだ。
 ああ、全く、どんなに、恐しく、哀しく、切なく思っているだろう!
 おれが人間だった記憶のなくなることを。


 李徴が口にした「しあわせ」という言葉には、中島敦の手によって傍点が附されている。
 私は授業でこれを「異化効果」(Verfremdungseffekt)であると教えるが、そんなことを聞かされずとも、この傍点つき「しあわせ」を、文字通りとる人はいないだろう。
 なまじ人間の心が残っているからこそ、非人間的なおのれの行いに苦しまなければならない。
 ならばいっそ、身も心も獣に堕ちてしまえば、おのれを引き裂く矛盾にさいなまれる事もないのではないか。
 闇に闇を塗りこめていくような李徴の独白はかくも悲痛である。


 物語終盤、李徴が口にした言葉に触れてこの小論を終わりにしたい。


 人間は誰でも猛獣使いであり、その猛獣に当たるのが、各人の性情だという。
 おれの場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ。



 ひとは誰でも心に虎を飼っている。それは普段は眠っているが、折にふれて眼を覚まし、頭をもたげ、歩きまわろうとする。その虎をうまく飼い馴らす人もいるし、おのれ自身を食いつくされる人もいる。

 李徴は、詩人になりそこない、あさましい虎になり果てた。

 賢い李徴は、それも、生きもののさだめだとして受け入れ、生きていくのだろうか。

 それでも私は思うのだ。李徴が完全に虎になる前に、自身の詩を世に遺すことができたことは、李徴にとって幸せなことであっただろうと。

 無二の旧友・袁傪の手によって後世に伝えられたその絶唱は、冷たい月の照らし出す渓谷に朗々と響いたことだろう。

 李徴はおのれの中の人間の心を失うことで初めて傑作と呼ぶべき詩を世に問うことができたのである。
 しかしその境地は、あさましい虎にならなければ得られないものだった。
 いやむしろ彼は、虎になることで初めて真の詩家となることができたのだといえる。

 文学とは、かくも業深きものなのだ。
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by yoizukisaene | 2014-10-05 09:14 | さえね先生 | Comments(2)

「山月記」について(上)

 「山月記」、という小説がある。中島敦の手による短編小説で、戦後すぐに高校の国語の教科書に載るようになり、その後、一度も姿を消したことがない有名な作品だ。


 「隴西の李徴は博学才穎、天宝の末年、若くして名を虎榜に連ね、ついで江南尉に補せられたが、性、狷介、自ら恃むところすこぶる厚く、賤吏に甘んずるを潔しとしなかった。」という名高い書きだしを覚えている人もいるだろう。高校生における知名度は「羅生門」「こころ」「高瀬舟」などをしのぐものがある。


 作者の中島敦は、三十三歳の若さで夭逝した小説家である。豊富な漢籍の素養に支えられた格調のある硬質な文体と、精緻な構成による完成度の高い作品を残した。


 「山月記」の中の白眉といえば、虎になった李徴が朗々と漢詩を吐く箇所であろう。あるいはまた、「臆病な自尊心」「尊大な羞恥心」という、謎めいた(よく高校生が解釈に苦しむ)文句も印象に残っている人が多いかもしれない。
 けれども私が気にいっているのは、そこではなく、李徴が次第に虎になってゆくおのれを自己分析する部分である。

「自分は初め眼を信じなかった。次に、これは夢に違いないと考えた。
 夢の中で、これは夢だぞと知っているような夢を、自分はそれまでに見たことがあったから。
 どうしても夢でないと悟らねばならなかった時、自分は茫然とした。そうしておそれた。
 全く、どんな事でも起り得るのだと思うて、深くおそれた。
 しかし、何故こんな事になったのだろう。」


 変身の恐怖に耐えながらもつとめて冷静に分析しようとする李徴。その結論は、われわれ生きものを生かす自然のありようを、冷徹なまでにわれわれにつきつけるものだ。

わからぬ。全く何事も我々には判らぬ。
 理由も分からずに押し付けられたものを大人しく受取って、理由も分らずに生きて行くのが、我々生きもののさだめだ。
 

 まさに人が生きるとはそういうことではないか。
 顔に身体、声に才能。それは人それぞれ全く異なるものである。
 われわれは人をうらやんだり、さげすんだりしながら生きている。
 あるいは、人間とは、おのれの境遇について、なぜ、どうして、と問わずにはいられない生きものなのかもしれない。
 しかし李徴は、それは我々生きもののさだめだと突き放す。
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by yoizukisaene | 2014-10-05 09:13 | さえね先生 | Comments(0)

新学期スタート!

はやくも9月です。
学校全体がいよいよ進路に向けて走り始めます。
いや、夏休みにはすでに走り出しているので、「加速していく」が正しい表現かもしれません。

生徒がそれぞれの希望の進路をつかむことができますように。
熱い秋が始まります。
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by yoizukisaene | 2014-09-01 07:29 | さえね先生 | Comments(0)



静岡在住の歌人です。日々詠んだ歌を載せています。
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管理人プロフィール
《生まれも育ちも》
1984年、静岡県富士宮市生。
2006年3月、熊本大学文学部文学科日本語日本文学分野卒業。現在、静岡県在住。
2006年「短歌研究」誌掲載。
2009年「平成万葉集」(読売新聞社)入集。
2012年 歌集「高天原ドロップス」(文芸社)上梓。

《専門と専攻》
専門:日本古典文学(平安朝和歌文学)
専攻:「古今和歌集」とその表現

《師弟関係》
師事 安永蕗子
弟子 小海碧架
    まみ


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