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文字言語の音声変換(発話行為)についての考察
文字言語の音声変換(発話行為)についての考察
本来、日本語口語文は話し言葉の魂を吹き込まれた文章体である。そこでは当然文字言語が音声言語の担うべき役割をも包有することとなる。 文字言語は通常「待つ記号」である。「読まれる存在」であり読み手を“待つ”存在である。読まれてこそ文字は意味を成し、情報を宿していたことが証明され、媒介としての役割を果たしたことになる。 読まれぬ文字、読めぬ文字、読み手のいない文字は、文字であって文字でない。 そもそも発音不可能な文字(シンボル的に意味だけを伝える文字)は想定可能であっても、運営上困難をともなうことは想像に難くない。 文字言語は文字記号であって記号は運用されるためにあるのだから、それ自体を簡便に把握できない記号は、「利便性」という重要な要素を欠くことになる。文字は発音されることではじめて役割を発動するといっていい。 我々は文字を発音し、その発音内容から何らかの情報を得ようと務めている。ここでは文字は「情報を媒介するもの」と位置づけることができよう。となれば、読めない文字は媒介行為を中断するという一点において、文字の要件を満たしていない。 字が読める、ということは書き手と読み手との間に共通な認識コードの存在を認めることに他ならず、文字言語の音声変換(発話)行為とは共通した解読コードの行使とみることもできよう。 いわば、文字記号の中に圧縮されていた意味を音声という鍵を用いて解凍する行為が発話なのだといってもよい。 我々は、ふつう、文字言語を脳内外で音声変換(発話)する。そして「発話可能なもの」は我々の把握を受け我々に従属する可能性を持っている。 我々に「発話」できるものはその存在を我々によって定義されたわけであるから、我々の側から見れば将来的な従属への第一歩を踏み出したことになる。 そうなると、読めない字の前で我々が覚える無力感も、読めたとたんに我々を支配する万能感も説明できるのではないか。 読める字は、怖くないのである。 それはその字が「言語コード」によって定義され、意味と文字と音声とを与えられ、「我々に取り扱えるもの」になったからである。 では文字言語の音声変換(発話)において注意しなければならないことは何か。 ![]() と、捉えた時、音声の持つ特質について我々はもう一度よく検討してみなければなるまい。 すなわち、ピッチ・ストレス(強弱)・音色など「表現」と我々が読んでいるような領域の果たしている役割に、目を向ける必要があるのではないか。 ■
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by yoizukisaene
| 2009-08-18 11:20
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《生まれも育ちも》
1984年、静岡県富士宮市生。 2006年3月、熊本大学文学部文学科日本語日本文学分野卒業。現在、静岡県在住。 2006年「短歌研究」誌掲載。 2009年「平成万葉集」(読売新聞社)入集。 2012年 歌集「高天原ドロップス」(文芸社)上梓。 《専門と専攻》 専門:日本古典文学(平安朝和歌文学) 専攻:「古今和歌集」とその表現 《師弟関係》 師事 安永蕗子 弟子 小海碧架 まみ 《著作一覧》
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