個人指導ノートより 第一回
個人指導ノートより
日本人は自己を対象化しない。 欧米言語文化圏では自己を他者とは異なる「個人」として認識するために「人称」が重要視される。「I」「You」「We」などの差は重大である。これは「I」と「You」あるいは「We」が非連続の存在(つながっていない、別モノだ)と考える意識が根底にあるからだろう。 これに対して日本語文化では主語・人称を明示することをあえて避ける傾向にある。というより、どちらかといえば「私が」ではなく「私どもは」、「私の意見」ではなく「みんなの意見」というように、集団に依拠した「非明示的」ともいえる表現が横行している。 それは日本語が場面依存性の強い「場」の言語とでもいうべき性質を持っているからであろう。「赤い花なら曼珠沙華」を受容される「場」の論理が日本語表現の無主語性を支えている。 そしてそれはゆるやかな「甘え」の文化であるといえる。「私」が思っていることは当然「あなた」も理解できるはずだ、という信念を、私たちは無意識の内に持っていはしないだろうか。それは甘えの構造である。しかし日本ではそれが許され、受容され、通用していく。連続観の上に成り立つ文化である。 しかしひとたび「場」の空気を読まずに言動したとき、厳しい反応が返ってくることは言うまでもない。それはその「場」に参加しているメンバー(場の構成者)に迷惑をかける行為だからであり、世間という「場」における関係性を重んじる日本特有の文化システムである。 そしてこの根は存外に深いように思える。
by yoizukisaene
| 2008-10-02 16:59
| さえね先生
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《生まれも育ちも》
静岡県富士宮市生。 熊本大学文学部卒業。 2006年「短歌研究」誌掲載。 2009年「平成万葉集」(読売新聞社)入集。 2012年 歌集「高天原ドロップス」(文芸社)上梓。 《専門と専攻》 専門:日本古典文学(平安朝和歌文学) 専攻:「古今和歌集」とその表現 《師弟関係》 師事 安永蕗子 弟子 まみ 《著作一覧》 最新のトラックバック
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